Hotel's Stories
  十五年目の陽光  
  Chapter.4  
   
  パスタの後、魚料理に続いて肉料理が運ばれてきた。
「和歌山産の熊野牛を使ったタリアータ※です」とウエイターが言った。
一皿ひと皿、繊細な盛りつけなのだが食べるとボリュームがある。
これで肉料理が食べられるかと思うが、
今まで食べた事のなかった熊野牛に興味をそそられ一枚目を食べる。
舌にあたる肉のキメが細かく柔らかい。
しっとりとした霜降りも感じるのだが、油っぽさがない。
ホテルからのお祝いのシャンパンの後、2杯目のワインを飲む良之もまた、
すべての皿をたいらげ、このタリアータを食べている。
アルコールをとるとあまり食べない良之にしては珍しい。
このロケーションのせいなのかと思いながら、和美もあらためて味わいながら肉を噛む。
 
   
   ※タリアータとは、イタリア語で「切った」という意味で、薄切りした肉料理全般をさす。
 シンプルな調理法なので、上質な肉を選ぶことが大切
 
   
 

バイオリンの曲が変わった。これはたしかチャルダッシュという曲だ。
フィギアスケートの浅田真央選手がこの曲で滑ったので曲名を覚えている。
低くゆっくり流れていた音色から、
早いリズムを奏でる高い音色への変化が和美の鼓動を早くさせる。

 
   
  夜のレストラン店内風景  
   
  子どもを授かるかどうかは自然にまかせることを選んだのは良之なのに、
良之の母親が、子どもができないことを言うのは和美にだった。
カレーはおふくろの味がいいという良之のために、
和美の台所で義母と並んでカレーを作った日の夜、和美は良之に言った。
「今日もまた、お義母さんに子どものこと言われたわ。私が鶏だったらよかったね。
そしたら温めるだけで子どもが生まれたかもよ」
良之は何も言わなかった。
それで俺にどうしろというのだという顔で黙ったままだった。
「おふくろには悪気がないんやから、聞き流して放っておけばええんや。
子どもがいてるいてないは、俺ら2人のことやろ」
それまでに何度か聞いたことのある決まり文句が、無言の目から口から聞こえてきた。
 
   
  夜の運河の暗い水面に揺れる橋のイルミネーションが、
高く張りつめていくバイオリンの音色に呼応するかのようにざわめいて見える。
あの時和美は正しい答えや解決策をもらいたかったわけではない。
ただ和美の気持ちに共感してもらいたかっただけだ。
しかしそれは良之には伝わらない思いだった。
それ以来和美は、良之の母とのことを良之に言うまいと決めた。
カスガイになる子どもがないのだから、お互いが顔をそむけたくなる状況を
つくるのはよそうと決めた。
気の合う友だちから始まり続いている2人の関係を壊さないことだと思った。
自分と良之の間にもちこむのは、良之のいう‘俺ら2人のこと’だけにしようと決めた。
 
   
何種か添えられていたソースや塩で、やわらかい肉のうまみを楽しみ、
食べきれるかと思っていた肉料理もきれいに平らげた。
かなりの量を食べているのに胃が重くならない。
バイオリンのライブを楽しみながら和美はデザートを待つ。
このレストランが出してくれるスイーツはどんなのだろうとワクワクする。
3曲目の演奏が終わった。
アップテンポの曲でテンションの上がった客たちの大きな拍手が鳴りやむと
『涙そうそう』が流れ出した。
「あ」と和美と良之は思わず声を上げ、目を見合せた。
そろってサザンオールスターズが好きな2人は、若いころ一緒にコンサートに
行ったりもしたが、結婚してから、いつしか一緒に音楽を楽しむことをしなくなった。
ある日良之がこの『涙そうそう』のCDを買ってきた。
「ええ曲やんな。カズもきっと好きやと思って。一緒に聞こう」
2人並んでゆっくりと音楽を聴くのは久しぶりだった。
和美が‘2人のことだけ’を考えようと決めてしばらくしてからだった。
バイオリンの奏者は2人の席から3つほど向うのテーブルの前で
演奏をしている。その姿を見つめながら和美はじっと曲に耳をかたむける。
「ほら」
和美の前に、良之が小さな箱を置いた。
「なに。あたしに?」
「そうや」
照れくさそうにそっぽを向く。
「開けてもいい」と言うと和美は、良之の返事を待たずに箱を開けた。
中には小さなダイヤのピアスが入っていた。
ライトアップされた橋
子どものことでの気持ちの落ちこみがひどい時、
アクセサリーを身につけることもなくなっていた。
その時にふさがってしまったピアスの穴を、
今さらと言いながらも3年くらい前にまたあけた。
和美は「きれい、きれい」と繰り返し、その場でつけかえる。
「15年、ありがとう」
良之が、照れくさそうに言った。
「子どものことでは辛いこともあったやろうけど。
子どもがおらんぶん、これからも2人で仲良うやっていこうや」
和美の目から涙がこぼれた。
バイオリン奏者が和美たちの席にやってきた。
涙を見られた照れくささに「結婚記念日なんです」と告げる。
「おめでとうございます」ときれいなお辞儀を一つくれると、
和美の方を向いたまま絃の上に弓を置いた。
『川の流れのように』が流れ始めた。やさしい音色だった。
心の襞の1枚1枚をぴったりと包みこむような温かい音色だった。
和美は胸の奥が小さく震えだすのを感じた。
嬉しさとも喜びともいえない…洗い流されていくような感覚。
その感覚におされるように涙がこみあげてきた。
こんな人前でと思ったが、すぐにそんなことはどうでもいいと思った。
温かい掌のように和美の心にただそっと触れてくれる
バイオリンの音色に、いまは気持ちをゆだねたかった。
そしてあふれる涙を止めなかった。
しばらくは和美たちの席で引いていたバイオリン奏者は、
間奏部分にさしかかるとゆっくりとお辞儀をし、次の席に移っていった。
すこし落ち着こうと運河に目をやると、
橋から落ちるイルミネーションの光が、
涙の向こうによけいに滲んで揺れた。
良之とのこれからの時間も、
小さくさざ波を立てながら続いていくんだろうなと思った。
そしてこの運河が海に流れ込んでいくように、
今はまだ思い描くこともできない2人でつくった場所に流れ込んでいくのだろうと。
あと10年経って銀婚式を迎えるころには、
私と良之の人生の時間はあの夕焼けの頃だなと和美は思う。
銀婚式にはまた2人でここにこうしている姿を思い浮かべながら。
 
<完>
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