ひまわりのひと
Chapter.1
「芦田です」と名乗った男性は想像と違っていた。
さりげなく、少しだけ…心の中でそう言いながら菜実子は、
男性越しに連れの女性の姿を見る。
「そっちで待ってて…」と言われてその女性は、
チェックインの手続きをする芦田から離れ、
カフェテラス越しに見えるヨットハーバーの方を向いている。
淡いブルーのジャケットの小さく膨らんだ七分丈のパフスリーブから出た腕も、
膝上あたりでフリルが重なった白いワンピースの裾から伸びる足も、折れそうに細い。立ち姿が絵になる女性だ。
「間違いないです、よろしくお願いします」
芦田は書き終わった宿泊カードと、確認のメモを菜実子の方に滑らせる。
低くふくらみがあってよく通る声は包みこむような温かさを感じさせる。
その声と合せると、中肉中背…というより少しふくよかな体形が
さっきより魅力的に見える。
「かしこまりました」
女性が不意にこちらに来てもメモの内容が見えることのないように、
菜実子はさっと二枚の書類をカウンターの内側にしまってから、ルームキーを渡す。
「
かほ
・・
、お待たせ」
芦田の呼びかけに女性はパッと振り返り、足早に近づいてくる。
猫のようにしなやかな足取りに、子犬のように人なつっこい笑顔だった。
「あのテラスでお茶が飲みたいな」
自分の荷物をとり上げながら、
かほ
・・
と呼ばれた女性が言う。
ボストンバッグにつけたサマンサタバサのハートチャームが揺れる。
「ディナーのためにケーキは我慢やけど」
声の感じが芦田に似ていた。見た目から受ける甘い雰囲気よりも落ち着いた声だ。
かほ
・・
の場合はその声が、すらっとした姿から受ける近寄りにくい最初の印象に、
親しみやすさを加えていた。
「部屋に荷物を置いたら来よか」
芦田は
かほ
・・
のボストンバッグを受け取り、
かほ
・・
は空いた方の手を彼の持ってくれたバッグの持ち手に添え歩きはじめた。
寄り添って歩く後ろ姿を見送りながら菜実子は胸が高鳴るのを感じた。
一生の思い出になるような誕生日にしていただこう―。
そちらのホテルに泊まりたいのですが、
部屋をひまわり畑にしていただけますか?
恋人の誕生日旅行なので、彼女の大好きなひまわりでいっぱいになった
部屋でお祝いをしてあげたいのです。それも彼女の誕生日に日付の変わる
ぎりぎりに部屋を飾りつけてもらいたいのです。
お願いできますか。
芦田浩平
八月の初めに来たこの問い合わせメールを開いたのが菜実子だった。
上司の大崎から、『もちろんオッケー、お客さまの願いにノーと言わないのが
ホテルマンや』と返事をもらうと、すぐに返信メールを打った 。
芦田浩平様
お問い合わせありがとうございます。
お誕生日のお祝い、喜んでお手伝いさせていただきます。
お花の準備など、芦田様のご希望をうかがいながら進めてまいります。
ご連絡をお待ち申し上げております。
素敵なお誕生日を過ごしていただけることを心から願って。
和歌山マリーナシティロイヤルパインズホテル 辻井 菜実子
この返信メールを送るとすぐに芦田から予約の申し込みがあった。
それかららひと月半ほど、菜実子はこのひまわり畑のことを考えると
胸がわくわくするのだった。
菜実子の上司の大崎も他のスタッフたちも、やはりこのハッピーな企てを楽しんでいた。
そしていつしか、ひまわり畑で誕生日を祝ってもらう女性のことを
『ひまわりのひと』と呼び合っていた。
予約してすぐに芦田は菜実子宛てにメールを送ってきた。
辻井さんへ
予約したプランには朝食と夕食がついていますが、イタリアンディナーで
メニューを変えてもらったり追加注文するといったことをお願いできますか。
トスカーナ地方のワインと、そのワインに合う料理をいただきたいのです。
それから…
それからバースデーケーキも用意してもらいたいということだった。
部屋をひまわり畑にすることについては菜実子と大崎が
ホテルの装花をしてくれている花屋のフラワーアーティストとすすめ、
ディナーとケーキについてはイタリアンレストランのシェフとマネージャー、
パティスリーのパティシエにまかせることになった。
芦田は菜実子から問う前に、特別な注文への予算を知らせてきた。
ひまわりとディナー、ケーキそれぞれに相当の予算を充てていた
きっとすごく思い入れのある誕生日なんだろう…―。
芦田という男性に、その人の思いにスタッフみんなが想像力を働かせ、
それぞれ自分が芦田という人になったような気もちで
『ひまわりのひと』のバースデーの準備にかかった。
<つづく>
この物語は実話をもとにしたフィクションです。
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