「香りが広がっていくね」 口に含んだワインをゆっくりと喉の奥へと流し込みかほ・・が言った。 「何ていうワイン?」 「キャンティ・クラシコッコ・リゼルヴァっていうんやって」 菜実子からのメールで覚えた銘柄を答えた芦田がサービスをする吉村と 名札をつけたスタッフの方を見る。 その目がアシストを求めているようなので、吉村が言葉を続ける。 「バラの花や熟したオレンジとスパイスがバランスよく香る、 旨みとしなやかさをそなえた、本場イタリアでも人気の、 トスカーナ地方の代表的なワインでございます」
「バラの花や熟したオレンジとスパイスがバランスよく香る、 旨みとしなやかさをそなえた、本場イタリアでも人気の、 トスカーナ地方の代表的なワインでございます」
吉村の説明を聞くかほ・・の顔にみるみる笑顔が広がっていく。
「トスカーナ地方のワインって、コウちゃんが選んでくれたの?」 「選んでくれたのはお店の人やけどね…ホテルを予約した時、 トスカーナ地方のワインと、それに合う料理をお願いしておいてん」
かほ・・の笑顔を見る芦田も、ほんとうに嬉しそうに微笑んでいる。 「そうなんや、イチジクのこれ、すごいワインに合うなあと思った。ありがとう」 かほ・・は芦田と吉村の二人に視線を投げかけながら、 ワインに合わせ別に添えた無花果とゴルゴンゾーラチーズをグリルした前菜を 人差し指で小さく指した。
吉村はかほ・・に控えめな笑みを返し、芦田に会釈をして下がった。 二人は料理とワインと会話を楽しみ続ける。 「ここからも建物の下を流れる運河が見えるね」 パスタを食べ終わりメインディッシュを待つかほ・・が、ガラス張りの風景を眺めて言う。 かほ・・の見る方を振り返った浩平の視線の先には、 中世ヨーロッパの面影を残す家付きの橋ポンテヴェッキオをモチーフに、 アーチ型になったホテルの足元を流れる運河があった。
「こんなところで誕生日祝いしてもらえて幸せ。 わたし、ずーっと忘れへんから。ほんまにありがとう」
この後待っている、浩平からのサプライズの祝いを知らないかほ・・は、 テレビの紀行番組でトスカーナ地方のひまわり畑を見て以来、 イタリアにあこがれ続けている自分のために、浩平が用意してくれた誕生日が嬉しい。
それぞれが職場の先輩に誘われて行ったワインとチーズのイベントで知り合った 浩平との交際を、さりげなくリードしてきたのはいつもかほ・・だった。 ワインとチーズは好きだったが蘊蓄を語り合えるような通ではないかほ・・が、 イベントで会話を楽しめた相手が浩平だった。 浩平は自分がワインにもチーズにも詳しくないことを話し、 トスカーナのひまわり畑を見てからイタリアが好きになり、 時にワインやチーズも楽しんでいるというかほ・・の話を楽しそうに聞いてくれた。
浩平の肩にもたれるようにして今撮った写真をのぞき込んでいたかほ・・は、 顔をあげると菜実子の方に体を向けて「ありがとう」と微笑んだ。
昨夜芦田とかほ・・がイタリアンレストランでの食事を終え温泉に向かった後、 菜実子と大崎は二人の部屋をひまわりで飾った。 部屋の数か所に据えた籠に花束を挿し、 ソファの上に五十本のひまわりでつくった手渡し用の花束を置く。 淡いライムグリーンとクリームイエローのソファの生地がしっくりと花束となじんだ。
花って生きているんだな―と菜実子はあらためて思った。 光を浴び、水を吸い、呼吸をするひまわりを飾ると、 部屋全体が歌いだしたように華やいだ。 腕時計を見ると、針は十時五十分を過ぎたところを指している。 テーブルの上にバースデーケーキを置き、 二人分のプレースマットとお皿とカトラリーを添える。
かほ・・と呼ばれていた『ひまわりのひと』は喜んでくれるだろうか―。 素敵な誕生日をプレゼントしたいという芦田さまの思いにかなっているだろうか―。 写真に残したいくらい素敵だけれど、 この部屋はいま芦田さまのプライベートスペースだ。 菜実子はもう一度ゆっくりと部屋を見渡してから、大崎を見る。 銀のカトラリーにくもりがないかを確認し終わった大崎が菜実子の方を振り返り、 力強く頷いた。
「うまくいくといいですね」 菜実子は部屋のドアを閉める大崎の背中に小さな声で言った。
「そなやあ。できるだけのことはさせていただいたから。 後は明日、お二人がものすごいええ笑顔で チェックアウトしてくれはるのんを待つだけやな」
「ありがとう」と菜実子へ向けた微笑みを浮かべたまま かほ・・はまたデジタルカメラに視線を戻し、「ね、いいね」と浩平に話しかける。 浩平はうんうんと繰り返し頷いてから「そろそろ行こう」と出発を促した。
花束を抱えての記念写真をとった回廊のカフェテラスを後に二人は車に向かった。 持ちきれない花束を台車に載せて菜実子はかほ・・の後ろを歩く。 後ろ姿からも笑顔が香ってくるようだ。 花束を車に積み、車に乗りこむ前にがもう一度「ありがとう」と言った。
「お誕生日おめでとうございます」と、菜実子は機会があれば渡そうと用意していた 小さなバースデーカードをポケットから取り出す。 かほ・・は昨日チェックインの時に、芦田に見せた子犬のような人なつっこい笑顔を浮かべ 「ありがとう、今年の誕生日のことは、ずっと忘れません」と言った。 カードを受け取る左手がきらっと光った。
車の後の座席はひまわりでいっぱいになった。 リアウインドウの下半分が黄色く染まっている。 助手席で微笑んでいるはまるでひまわり畑に座っているようだ。 ことんとリアウインドウを染めるひまわりを揺らして車が走りはじめた。
「お二人とも笑顔がとまれへんご様子やったなあ」 小さくなっていく後ろ姿を眺めていると、 一緒にお見送りした大崎が朗らかな声で言った。 菜実子はさっきのかほ・・の笑顔を思い出し、 今日、自分も部屋にひまわりを飾ろうと思った。