Hotel's Stories タイトル
  グロウイング アップ  
  Chapter.1  
   
 

「ありがとうございました」と深くお辞儀した明日実の視線の先を
三沢さまの足が立ち去っていく。
ゆっくりと丁寧に上体を起こすと、
いつものように急ぎ足で玄関に向かう三沢さまの後ろ姿があった。
(やっぱり、まだまだか)と思いながら見るその背中に、
ニコッととびきりの笑顔を送ってから店の中に戻る。
三沢さまのカップには明日実が注いだおかわりのコーヒーが
ほとんど残っていた。器に触れるとまだ温かい。
テーブルを片づけながら、
おかわりのお声がけをするタイミングが悪かったのかなと考える。

 
   
 

新入社員の研修が終わってすぐに明日実が配属されたのは
ホテルの一階にあるブッフェレストランで、
そのレストランにはカフェ&スイーツショップが続いている。
明日実はそのカフェ&スイーツショップのサービスの仕事もしている。
さっきの三沢さまはカフェのお客さまで、遅い朝、昼下がり、夕方と
時間はまちまちだが、月曜から金曜までのウイークデーは
決まって日に一度ご来店くださる。

 
   
 

ラ・モーラ店内

 
   
 

自分がホテルウーマンになるまでは
ホテルに出入りしたことがなかった明日実には、
ホテルのカフェに毎日通うお客さまがいるなんて、ちょっと驚きだった。
三沢さまのことを知って二週間ほど経ったある日、
「三沢さまって、どういう方なんですか」とマネージャーに聞いてみた。

 
 
 

マネージャーによるとホテルの近くにある会社の社長さんだそうだ。
五十をいくつも越えて見える、自分の母親よりも年上だろう、
ふくよかな女性が会社の社長さんだということが、
社会に出て間もない明日実にはまた驚きだった。
けど女性社長と言われたら、デザインや色の濃淡に違いはあっても、
きまって赤みがかったオレンジ系のスーツを着てらっしゃるのが、
なんとなくそれらしく感じて納得だった。
そして、いつも怖いくらいの真顔なのは
仕事のことを考えていらっしゃるからなんだろうと想像した。
お連れさまと来られた時だって、
コーヒーを飲みながら難しい顔で言葉を交わしてらっしゃるし。
だから、ちょっと近寄りがたいような雰囲気なんだと…。

 
 

そう、三沢さまはめったに笑わないお客さまだ。
お店に入ってくるときから帰っていく時まで
―お客さまに対して失礼な言い方だけど―
終始ぶすっとした表情で過ごしてらっしゃる。
はじめて三沢さまに接客した時は、チラッと横目で明日実の姿をとらえ
「ホットコーヒー」と短く言われたことに、
怒られたのかと思って心臓がどきんとした。
そして次の日も、その次の日も、同じように顔も向けてくださらず、
ぶっきらぼうに「ホットコーヒー」の一言だけを告げられるうちに、
研修を終わったばかりの自分が何か
お客さまを怒らせるようなことをしてしまったのかと不安になってきた。
三沢さまってどんなお客さまですかとマネージャーに聞いたのは、
その不安があったからだ。

 
 

男性のお客さまのなかには、まあ言えば無愛想な方もいらっしゃる。
けど女性のお客さまはたいてい、にこやかに接してくださる。
それが三沢さまはにこりともしないどころか、
顔を正面から見てくださることもない。
よほど嫌われてしまったのかと不安だったのだ。
マネージャーは気にしなくていいと言った。
三沢さまはそういう方だからと。

 
 

お客さま一人ひとりに、
スタッフとの距離やつきあい方にお好みがあるのだから、
その方そのかたの望まれるスタイルに合わせ、
それぞれ心地よく過ごしていただくのがおもてなしだと教えられた。
このホテルやカフェ、自分たちスタッフのことをお気に召して、
三沢さまは毎日お越しくださってるんだと。
だからいい意味で自信をもって、いつもどおりの明日実らしい
明るい素直な笑顔で、真心をこめて接していればいいんだと言ってくれた。

 
 

マネージャーに言われたとおり、意識し過ぎることなく、
どのお客さまとも同じように笑顔でおもてなししようと決めて
また二週間ほど経ち、明日実にはまた気になることができた。
カフェ&スイーツショップにはアルバイトスタッフの女の子が二人いる。
一人は主婦、一人は大学生で、二人とも明日実よりもキャリアは長い。
気難しい顔を崩さない三沢さまが、
この二人にだけは柔らかい表情で話しかけているのだ。
マネージャーは誰に対しても同じように笑わない方だと言っていたけど違った。
カフェにいる女性スタッフは自分を含めて三人。
そして三人ともそんなに歳が離れていない。
やはり自分は嫌われてしまったのではないだろうか―
明日実の気持ちはざわざわした。

 
 

注文をうかがいに行く時はもちろん、灰皿の交換、
お冷やの交換に行くのも、内心おっかなびっくりだった。
なかでもコーヒーのおかわりをおすすめする時がいちばんドキドキものだった。
後の二人が「おかわりはいかがですか」とポットをもって近づくと、
「ありがとう、いただくわ」とすっとカップを彼女たちの方に、少しだが滑らせる。
明日実が行くと「いえ、けっこう」と素っ気なく断られる。
いや断られるだけではない、
それから程なく席を立ち帰ってしまうことも珍しくなかった。
関わりたくないほど嫌われてしまったんだろうか…。

 
 

明日実は人なつっこい方だ。初めて人に会う前は楽しみでワクワクする。
ちょっとでも自分のことを覚えてもらいたいと、笑顔で積極的に関わっていく。
明日実は小さい頃から笑顔がいいと褒められることが多かった。
ホテルウーマンの仕事も、明日実の笑顔がいいからという理由で
高校の先生から勧められたのだった。

 
 

ホテルになんて行ったことのなかった明日実には、
ホテルで働く自分の姿を想像することはできなかった。
ただ人と出会うことが好きな明日実の心は、先生のことを聞いた時、
子どもから年配の方、いろんな国の人と出会う
ホテル≠ニいう場所のことを想像して明るいレモン色に染まっていくようだった。
ホテルで働くことに魅力を感じること、でもホテルなんて行ったことがないから
自分の気持ちのほんとうのところが分からないということを先生に伝えた。
先生は夏休みが始まるとすぐ明日実を見学に連れて行ってくれた。

 
 

<つづく>

 

この物語はほんとうにあったエピソードをもとにした
フィクションです。実在の人物には一切関係ありません。

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