にじ
Chapter.1
他の子どもたちと一緒に右へ左へ、
ふわりふわりと飛んでいくシャボン玉を追いかける陽菜(ひな)が、
思い出したように美和子と直明の方を振り向き手を振る。
水に濡れたままだが太陽が照りつけるこの暑さの中、
風邪をひくこともないだろうと美和子は服を着替えさせずに遊ばせている。
陽菜は生まれた時からマンションで育ち、
いつも遊びに連れていく小さな公園にも芝生はない。
一昨日の昼過ぎ、このホテルに着いて芝生のガーデンを見たとたん
つないでいた直明の手を離し、庭の方に一人駈け出した。
「走ったらあかんよ」と止める美和子の声も、
嬉しさで跳ねる陽菜の耳には届いてなかったろう。
神経質で心配性な美和子の母は、美和子が幼稚園に通うようになっても、
町中で彼女の手を離すことはなかった。
幼稚園の送迎バスの乗り場から家までの短い距離もずっと手をきゅっと握っていた。
道の途中でおなじ組の友だちと出会った美和子が、
その子と手をつないで歩きたがっても、そうはさせてくれなかった。
その手の力が幼心に窮屈だったのを、いまも美和子は覚えている。
だから自分は子どもの手を握り続けるような母親になりたくないと、ずっと思ってきた。
初めて好きな男の子ができた中学二年生のころ、
自分も恋をしていつか結婚するのかとぼんやりと思った時、
美和子は、それなら自分が母親になることもあるのかとハッとした。
自分が母親になる…そう想像すると気持ちが沈んだ。
自分は子どもが苦手かも知れないと意識したのは、あれが初めてだったと思う。
「これ、うまいなあ。もう一個食お」
手にしていたチョコクロワッサンをひと口に頬張ると
直明はレストランの中に入っていった。
美和子たちはいまイタリアンレストランのテラス席で朝食をとっている。
昨日、三人が来たときにはテラス席はもういっぱいで、店の中で食事をとった。
冷房のきいた店内でガラス越しのガーデンや海を眺めながらとる食事もいいが、
せっかくリゾートホテルにきたのだから、
海からの自然の風を感じながらゆっくりと朝ごはんを食べたいと、
今日は朝食の時間が始まると同時に店に入った。
「美和ちゃんも食べる?」
チョコクロワッサンを三つのせた皿と別に、野菜をサラダ風に盛った皿を持って
直明がテーブルにもどってきた。
「そんなに…」
すでに家で食べる朝食よりもたっぷりと食している。
後はこのロケーションの中でフルーツをすこしとコーヒーを楽しむ程度でいい。
「のんびり食べたらいけるやろ」
そんなに食べられるのかと目で尋ねる美和子に直明はカラッとした口調で返事をする。
「このミニトマトもうまいわ、甘くて濃いねん。地元の農家で採れたんらしいで」
二年ほど前からベランダでの家庭菜園を楽しんでいる直明は、
そういってドレッシングをかけていないミニトマトを、
自分が育てているものの味と比べるようにじっくりと噛みしめている。
「太陽かなあ」
ガーデンで遊ぶ陽菜の方を見て目を細め、
「あ、虹や」と声をあげた。
その弾んだ声に美和子も直明の視線の先を見る。
さっきまでシャボン玉を追いかけていた陽菜が、
こんどはスプリンクラーの水に追いかけられて走っている。
子どもたちの水遊びのために撒かれた水で匂い立つほどの
鮮やかな緑になった芝生の上に、小さな虹ができていた。
「陽菜にも見せたろ」
言い終わらないうちに直明は陽菜の方に足早に向かい、
白いTシャツが透けそうなくらい水を浴びた娘を小脇に抱えて帰ってきた。
「ほら見てみ、陽菜ちゃんはさっきあの虹の中を通っててんで」
自分が虹を見つけた場所に陽菜を立たせ、
スプリンクラーがつくるスクリーンに映る虹を指さして見せる。
陽菜は「わあっ」と声を上げたかと思うと、興奮した時にいつもするように、
その場で地団太を踏むように足踏みをしてから
「おかーさん、ひなちゃん、にじのなか、とおってたんよー」と、
美和子の膝に上半身を投げ出した。
「そうやね、すごいねー」
美和子は手提げのバッグからハンドタオルを取り出して、
頭を撫でるように陽菜の髪を拭く。
直明の母親に似て細く柔らかい髪を短く切った陽菜の頭は、
水分を拭き取るとそれで半分くらい乾いてしまう。
風呂上りにするように水分を拭き取った髪を指先で、
空気をいれるように梳(す)いてから整える。
陽菜は時々思い出したように髪を伸ばしたがることがある。
直明は一度くらい伸ばさせてやればいいのにと言うが、美和子はうんと言わない。
髪を伸ばせば毎朝幼稚園に行く前に母親が髪を梳き、
髪飾りをつけてやることになるのが目に見えている。
そういう自分を想像すると美和子はぞっとするのだ。
さすがに直明にその理由を正直に言うのは憚(はばか)られ、
「まーるいお顔にアゴがキュッととがった陽菜ちゃんには、お母さん、
短い髪が似合うと思うなー」と言ってごまかしている。
直明は美和子が面倒くさがっているくらいに思っているようで、
「そーやなー、お父さんもショートカットの陽菜ちゃん好きやなー」と
美和子と言葉を合わせ、
「陽菜ちゃんが自分できれいに髪を洗ったり、結んだりできるようになったら
伸ばそうなー」となだめてくれる。
「おかーさん、みてた?」
美和子の膝に顔を伏せたままの陽菜から、くぐもった声が聞こえる。
直明が美和子に向って大きく頷(うなず)く。
「見てたよ」
美和子がそう答えると陽菜は足を浮かせて、
そこでばたばたと空を切って足踏みをする。
美和子は陽菜の頭と自分の下腹の間に手を差しこみ、
「はい、できあがり」
柔らかな小さな頬を包むようにして陽菜の顔を起こしあげ、自分の足で立たせる。
「あ、にじ、きえてる」
庭を振り返った陽菜が、立つ位置が変わって見えなくなった虹を探すように
背伸びをしたり体を左右に揺らしたりした後で寂しそうに言った。
「陽菜ちゃんが行ったら、また出るかもなー」
直明が小さな頭を包みこむように撫でながら言葉をかける。
陽菜はビーチサンダルを履きなおし、またスプリンクラーの方に走って行った。
<つづく>
この物語はほんとうにあったエピソードをもとにした
フィクションです。実在の人物には一切関係ありません。
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